読んだもの
さよならインターネット まもなく消えるその「輪郭」について (中公新書ラクレ) 家入一真
なぜ読んだのか(読む目的)
- 自分が勤めている会社の創業者である家入さんがどのような考えを持っている人なのか、興味があったから
- 今後インターネットをやっていくうえでヒントになるようなことが書かれていそうだと思ったから
- 正直なところnoteで無料公開されていたのは後押しになった
思ったこと達
前半
前半、第3章くらいまでは「インターネットの歴史のふりかえり」のような印象。平成ネット史(仮) - NHKでつい最近ふりかえりをしたので「そうかそうか」という感じで読んでいた。
自分は平成生まれなのでインターネットと共に成長してきた。いや、「インターネットと共に」は言い過ぎた、そんなにインターネットと親密な幼少期を過ごしたわけではないので訂正する。「隣の県でインターネットくんが成長していた、その同時期にたまたま自分も成長していた」くらいかも。
小学校にパソコンルームはあった(タイピングゲームで遊んでた)。中学2年でケータイを手に入れた。高校の終わりにスマホを手に入れ、自分専用のPCを手に入れたのは大学入学時(大学指定のlets note)だった。ので、インターネットには大変お世話になってきた。
が、インターネット上で自己表現をしたり何かを作ったりという、なんというか、インターネットくんとの深い友情・絆・思い出、みたいなものはない気がする。
文章中に出てくるシーンやサービスを、自分の経験に照らし合わせて思い出したりした。
- 電話回線を介してインターネットにつなぐ、というのは実家のパソコンが一時期そうだった気がする。中学生ごろかな。動作がめちゃくちゃ遅かったと思う。
- 前略プロフは高校生の時に女子たちがやってた。
- 大学時代にはmixi,twitter,facebookというSNS時代に突入していった。連絡手段もメールからLINEに完全に移行した。
- 大学のサークルの連絡手段は、最初は専用のホームページに掲示板があって、そこに練習予定とか書いて、連絡はメーリスを使ってた。
- そのあと、一時期はmixiグループを使って連絡してたな(mixiでは主に怪盗ロワイアルと星空バータウンをやってた)。
- 最終的に全員がLINEを使うようになって、LINEでサークル同期のグループを作って連絡するようになった。
ここまでの章では、「インターネットが空気や水のように当たり前になった」「昔は『ここからがインターネットな!』という線引きがあったけど、今はその線引きがなくなってしまった」ということを言ってた。
後半
第4章以降はインターネットが世の中をどう変えたか、今後どうなっていきそうで、著者はどうしていこうと考えている、という話をしている。
文章中の言葉をいくつか取り上げて自分の思ったことを書いてみる。
無意識のうちに見たいものだけを選び取る。自分好みの意見ばかりを吸収する。
- インターネットに膨大な情報があふれている中で、自分の嫌いなものは目に入らないところに置くようになる
- 好きなものだけが目に入るようになる
- 好きなものだけに囲まれて、とても幸せに感じる
- 一方で、その世界に、不意に嫌いなものが入り込んでしまった時に、それを強く不快に感じるようになる
というようなことが書いてあった。まあ確かに、嫌いなものよりは好きなものを近くに置きたいもんなぁ。
インターネットという大きかった一つの世界は、あまりに大きくなりすぎたために、むしろ個々人の小さな単位に分断されることを選ぶようになりました。
- 個々人が処理できる情報量に対して、インターネットのもつ情報量が大きすぎる
- 全てを見ることはできない
- 見る範囲を初めから制御するようになる
というようなことが書いてあった。人は見える範囲のものしか見えないので、見る範囲を制御してるのは「実はインターネットに限らずそうかも?」とも思った。(テレビも見たい番組だけ見てた)
膨大な情報をもつインターネットが、実は人間にとっては小さく小さくなろうとしてる、みたいなギャップがちょっと面白い。
インターネットの力で、ますます多くの人が表現者になっていく時代、果たしてその表現を維持できるだけの活力をもたらす規模や質の鑑賞者や消費者は残るのでしょうか。
ここでの「表現者」は本文中の文脈では「音楽活動をしている人」などを想像すると良さそう。
おそらく「音楽活動を始めやすくなったけど、音楽活動だけで食べてくのは大変かもしれないね、もしその音楽にお金を払ってくれる人がいない(残らない)なら」ということを言ってる。
インターネットの力で『誰でもできるようになる』と、誰でもできることは価値があまり高くないと判断され、お金を払わなくなる、というのは想像がつくなぁ。
表現自体をサポートする努力だけではなく、表現者を尊重し、気前良くお金を払ってくれるような消費者や舞台のほうも増やし、育てるほうへテクノロジーは注力をしていかないといけないとぼくは強く感じているのです。
いま自分が携わってるサービス、ある種これでは?と思った。
多くの場合、自分がいいと思うものを否定したり批判したりする声など聞きたくはありません。だからこそインターネットもその欲求に従い、見たくないものを排除する方向へパーソナライズしてくれるようになりました。しかし余計なものがない、という状況は、ときに「極端」な方向へとぼくたちを誘導してしまいます
SNSを使う時に自分の意思でそうしている(=見たくないものを排除してる)時もあれば、システムがよしななアルゴリズムでそうしている時もある。
仮に、自分と全く同じ考え方を持っている人しかいない(見えない)場にいるとしたら、多様性がなくていろんな場面でリスクが高いかも。
ユーザーにとって「ムダがないほうがいい」「ジャストサイズほどいい」「居心地がいいほどいい」ことを前提としたサービスばかりが生み出されているように思います
ユーザー側の意思でそうしているならまだしも、システム側で勝手にそれを強要してしまうのは違う気がするよなぁ。(と思って本文をもう一度読んだら同じことが書いてあった)
アルゴリズムに頼った効率的な情報収集は、もちろん有益です。しかしこれからの時代、ムダも多いかもしれないけれども、偶然性に身をゆだねた、人を介した温かみのある情報収集も、また新しい価値を持つ
インターネットによって心地良いと感じている世界の外に飛び出して、別の何かを探しにいくのも大事だよなぁ。
そういうところにきっと、PCに噛り付いているだけじゃ発見できない何かがあるんだろうと思う。
まとめ
個々の話については「確かにそうかもな〜」と思いながら読んだ。
一方で全体的に総じて何を言いたかったのか、は正直あまりよく分からなかった(自分の理解力不足という #説 はある)
個人的には「パーソナライズによるリスク」みたいな話と「表現者が増えていく中でどういう場を作っていくか」みたいな話が響いたので、自分はたぶん普段からそういう話題に興味を持ってるんだろうなぁという気づきがあった